ライフ ワズ ビューティフル

「普通」になりたかった「わたし」の独白。

身分の奴隷

奴隷という身分は、世界のどこかで今もあるんだろう。

いや、確実にある。

私たちが歴史の授業を受けたりテレビで見聞きしたプランテーションで働かされている子供たち。

そして、労働市場で安価で働かされる労働者。

見えない社会的ステイタスに縛られた、身分制と言う名の社会そのものに仕える奴隷って、身分の奴隷と言えるんじゃないかな。

一度、この記事のタイトルをぼーっと見つめて既視感があるなと感じたのだが、それはかつて、私が見たロシア映画に「愛の奴隷(原題もРабо любви, すなわち愛の奴隷)」だった。

まあこの記事には全く関係はないが。


話を戻すと、人は誰でも「あの人よりはマシ」「自分だけはまだ大丈夫」と思いたがる。

無職よりはマシ、フリーターよりはマシ、独身よりはマシ…など。

だから必死に受験勉強して、いつ役に立つのか分からない資格を取るために勤しんで、シューカツして、合コンして…果てし無く自分磨きをする。

それって結局、誰かと自分を天秤にかけて、自分がせめて数ミリでも上にあがっていたいがためであって、本当に望んだものなのかな。

社会的ステイタスや肩書きにがんじがらめにされた、奴隷のようだ。


誰も本当は、他人のことなんてそこまで気にしていない。

誰がどんな仕事をしようが、どんなスキルを持ってようが、誰と付き合おうが、別に芸能人でもなんでも無いのだからあまり興味はない。

だけど他人を気にするのは、自分はまだ幸せな方だと安心したいがためなんだ。

日本で飼い慣らされるよりマシ、と思って海外でゲンサイしていたら、同じ日本人であっても女性駐在員、駐妻(実際関わることすらない)、現採、とコミュニティーが別れているし日本以上のムラ社会である。

駐在と現採の云々は今は置いておいて、確かにそこには現地人、駐在員、ゲンサイ、そしてその他というような属性がある。

同じ現地人であっても社会的ステイタスが違えば全く接点はないし、むしろ日本人以上に身分に拘泥していると思えた。

だけど、必要以上に他人と自分を比べて劣等感に苛まれたり妬んだりということはあからさまにはない。

同じFacebookでの幸せアピールでも、本当に心から今与えられた幸せを噛み締めて感謝しているような、そんな姿すら見受けられた。

幸福の尺度が違うのは、生まれ持ったアイデンティティーや文化的背景に寄るのだろうか。

私が何よりも欲しかったシアワセって、どんな身分だったのか。


今こうやってネットをふらついて他人のことを気にしている時点で、まだまだ身分の奴隷なのである。