何者かでないといけない。
どうやら、日本では死亡届を出す時にもその人の職業欄を埋めなければいけないということを知ったのは、先日お役所に寄った時のことであった。
ここ最近制度が変わってそうなったのか、以前よりそうだったのかはまだ調べていないので分からない。他国ではどうなのだろうか。
記事を書く前に調べておくべきなんだろうなと思いつつも、思いつきで書いているので後回しになってしまう。
「死亡届には職業欄の記入を御願いします」というポスターを見た時に、「ああ、私がこれを提出される時には、何者なんだろうな」という考えが頭をよぎった。
会社員、自営業、無職
色々あるが、せめて「何者かでありたい」と思った。
どうしても生きていると、自分はこんなはずじゃなかったとか、こうなりたかった、これからでも間に合うだろうか、だとか延々と考え込んでしまう。
自分が組織に属している間は学生やどこどこの企業の社員といった風に、なんとか肩書きが持てるのだ。
名刺が持てるということに、何故か安心していた。
目に見えて、自分が何者であるかが確認できるという、しょうもない発想が脳みその片隅にあったのだ。自己顕示欲が強いくせに、表立って目立ちたくないという相反した考え故に、矛盾した主張を続けていた。
今でも私の姿や名前は、どこかで電子の海をさまよっている。それが、死ぬまでつづくのかと思うと酷く恐ろしい気分になるのだ。
あの時何者かであった自分が、途端に大衆の一個人になってしまうのが恥ずかしいという、下らないチンケなプライドじみたものが、こびりついているのだ。
人は演者だ。
職場での役職、家での役割、こう思われている自分、こう思っている自分。
社会的動物だからこそ、あらゆる舞台で仮面をとっかえ引っ替えして、まるで中国の変面みたいに瞬時に顔を変えて生きている。
死ぬまでずっと、変面を続ける訳だけど、「職業」という仮面を最後に残していないと何者でもないままなんだろうかと感じた。
仮面を外して、のっぺらぼうで生きて行くことが出来ない世界で、どれが自分の顔にあてはまるか探し続けるのだろうか。
何者にもなれない人々の1人として、ぼんやり考えるのだった。