ライフ ワズ ビューティフル

「普通」になりたかった「わたし」の独白。

精神障害者福祉手帳を取得した、そして尊厳死について考える。

ついに!私も障害者の仲間入りです!!なんていうと各方面から刺されるのではないかと思ってしまうが、私にとってこの「精神障害者福祉手帳」を交付されるのには大きな意味があったのでした。一つはケータイ料金や映画館等の割引が適用されるという点。私は結構映画館に通う方なのでありがたい。

その為に取得したのかと言われそうだが、精神疾患よりも他の呼吸器疾患やら婦人科疾患やらで莫大な金額が飛んで行くので少しでも安くなると大変ありがたいのだ。いつもお昼ご飯をどうするか悩むくらいには、映画館に行く際は頭を抱えているので。

 そしてスマフォの方だが、こちらはさっそくauショップに行ってみたらそんなにメリットがないことが分かった。結局プランの見直しをして終わったが、2年縛りというものから解放されるらしい。そういうのも、お店に行って初めて知った。

結構ネットで前もって調べていた方だが、そこまで把握出来ていなかったし、もしかしたら載せていないのかもしれない。

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今現在は双極性障害精神障害者福祉手帳、俗に略して精神障害者手帳を持っているのだがメリットといえばハロワで障害者枠に応募できるとか、税金面で助かるとかそのくらいであろう。1級を持っていない限りそんなに意味はなかったりするし、やはり知的障害を持っている方の養育手帳や身体障害者手帳に比べると格段にメリットは無い。

 JR等の割引もないしね。助かるとしたらやはり税金だとかそれくらいなんでしょう。まあ、ぱっと見で特に障害者と分からないし、私でも身体障害者の方に比べたら苦痛は少ないと思える。でも、躁鬱の鬱のどん底とひどいPMSが重なったときは死にたさと発狂したさレベルがMAXなので比べられるものではないかな。

 それで最近話が変わるが、「日本尊厳死協会」というところからパンフ一式を送付してもらった。これがポストに入っていたのだが、受け取ったのが私で良かった。家族に見られでもしたら・・・と思うのだが、そんなことを考えている時点で誰に見られてもどうでも良い気がしてくる。結局私は、今のままで行くとそんなに長生きしなさそうだし、する予定もない。かといって今すぐ死にたいのかと言われると、この間から打ったホルモン剤かつ抗がん剤の薬のおかげか死にたさは緩和されている。

 いや、セロクエルを増量したおかげか?人を殺しそうなくらいイライラしていると精神科で言ったら、リスパダールの錠剤を貰えたからだろうか?たまに飲んでから寝るとロヒプノールと相まって爆睡しそうになるが、最近はセロクエル200を3錠とロヒプノール2錠でも無理で、そこにリスパダールを追加して寝ている。コーヒーを飲み過ぎているせいもあるかもしれないが・・・。そんなこんなで、死について考えた時、私の遺影はどうして欲しいとか、要らない延命措置はしてほしくないとか浮かんで来た。まあ、お葬式そのものが要らないですという感じなので、遺影は形式だけで。

 ああ、これで私は障害者なのだー!!と悲観するでも無く、逆に「ありがたいです」と拝んでいる。恩恵を受けられなくても「自分は精神障害者なのだ」と認識できるだけで躁鬱患者にとってはありがたい。躁転すると完全に病識を失ってしまうので。

 なんとかかんとか、障害者ライフを楽しみます。

 

アダルトチルドレンな自分と子ども時代

「あなたはアダルトチルドレンですよ」と医師に言われた訳でもないが、私は自分のことをアダルトチルドレンだと思っている。

色々なサイトを見ても、かなり当てはまる項目が多い。

例に漏れず私も第一子だ。

機能不全家族で育つというが、どちらかと言えば、子ども時代は裕福に過ごしたと思う。嫌な言い方をすれば、物質的に、お金に困らない子ども時代だった。

大学生になり、アルバイトができるようになって初めて、1万円を稼ぐのがどれだけ大変か分かった。

子ども時代は転勤族だったせいもあるが、そのおかげで父の給料は一般のサラリーマンよりかなり高かったと思う。

ホテルに食事に行くことも、フルコースを頼むことも大してお金のかかることだと思っていなかったし、今更この年で他の同年代の子どもより10倍はお小遣いをもらっていたことを知った。

というのも、自分も私立の女子校に通っていたので必然的に似たような経済レベルの子弟が集まる。もちろん私の下にいる弟や妹も私立の男女別学校に通っていたので似たようなものだ。

修学旅行でお土産代だけに数万円を使ったのも今更吃驚するが、持たせたほうも持たせた方だなと思う。そんな金額、自分で海外旅行に行くようになってからも、ほぼ使わないのだから・・・・・・。

 

話をアダルトチルドレンに戻そう。

私は何でも卒なくこなす聞き分けのいい長女だった。

多分自分から何かやりたいと言い出したのは、保育園児のころピアノを習いたいと言ったのが最初だと思う。一番幼いころの記憶は4才くらいだろうか。ピアノと絵本、そして年の近い下のきょうだいの面倒をみる自分。

海外出張の多かった父は、その度にお土産を沢山くれた。

私が生まれてすぐの時にアメリカで買って来てくれた靴は、実はドール用だったという笑い話もある。おそらく5才頃に買って貰った如何にもアメリカンなジンジャークッキーのような形をしたドールというかぬいぐるみは、今も部屋にある。

先のドール用の靴も、部屋の本棚に置いてある。

 

多分愛されて、保育園、小学校、中高と育ってきたはずなのに、私には埋められないモノがある。

 

抱きしめてもらった記憶がない。

 

先日、弟が結婚式に自分の幼い頃の写真を使うからと言って、実家で写真を仕分けていた。私がピンで写っているものなどは、まとめて渡してくれた。

 

無造作に纏められた写真を手にしてみたが、記憶にない写真ばかりが、散らかっていた。

親はいろいろな場所に私を連れて行ってくれたのだろうが、ほとんど記憶に無い。

もちろん幼すぎるという理由のものもあるが、ある程度の年のものでも、「これは一体どういうシチュエーションなんだ」とか、「そもそもこんなところ行ったっけ?」というものがゴロゴロ出てくる。

多分、嫌なことや面白く無いことは自分でない誰かに肩代わりしてもらっていたんじゃないだろうか。

昔、保育園時代の連絡帳を見つけた。

そこに「何故お母さんは私を抱きしめてくれないのか」と母に言ったらしいことが記されていた。

年の近い2人の小さい子を抱えて大変だっただろうが、私はそれをずっと傍観していた。自分も、年は近く離れていない。

もしも、4才や5才くらい離れていたらもう少し母の愛情を独りじめできたのだろうかとも考えた。下の子を可愛がっており、いいお姉ちゃんであったし努めてそうしていたわけでもない。本能的に可愛いと思って、つい「よその赤ちゃんより可愛いね」と3才の私が口走って母を焦らせたエピソードもある。

もう下のきょうだいもいい年であり、家庭をもっているが、兄弟間の関係はとてもいい。ブラコンシスコンだとも思う。

だが、心のどこかで「もし私だけだったら、もっと私を見てくれたんだろうか」と思うこともある。

反抗期という反抗期のないまま大学生になり、就活や進学が全てどうでもよくなり、ふと「死んじゃおうかな」と思って決行したことがある。

バカなことをしたなと思うが、強い自殺願望というより「ふと消えても良いかな」と思ってバルビツール酸系睡眠薬を100錠くらい飲んだと思う。多分、本当に自殺する人間というのは「死んでやる!!」よりも、こうした「あ、今ならもういいかな」という何となくの気持ちでやって、成功しちゃった人間なのだろう。

死ぬつもり半分、少し現実逃避したい気分半分。

その天秤がぐらっと死に傾いた時、人は自殺成功してしまうんだと。

 

子どもの頃から本さえ与えていれば大人しく、真面目で従順に成長していった私は、大人になってそういった形で歪さを生み出した。

今は17才の頃に発症した双極性障害と、その時からついて離れない「死の意識」に揺られながら普通の人っぽく生きている。

 

良い子だった私は、大学院を卒業してからダメ人間になり、今もそこから抜け出したいと考えつつも安住している。

自分の人生は自分しか生きられないから、好きにしようという声と、「良い子でいなくちゃいけない」という声に揺られながら。

 

常に何か研鑽していないと落ち着かない。

褒められたいというよりも、自分だけは自分を認めてあげたいだけなんだろうか。それも今は分からない。

 

Twitterを辞めた。

前々から感じていたのだが、Twitterというツールはとてもパーソナルスペースが狭いように感じる。

私はアカウントを幾つも持っていて、大体それらは二次元関係の趣味や好きなバンドの情報を追いかけるのにとても役立っていた。ただ、面倒くさいことにTwitterでは「ジャンル」ごとにアカウントを分けていないと何故か罪悪感に駆られるパターンが多い。

「関係のないツイートをしてすみません」と誰かが呟くことはよく有る。アニメのアカウントならアニメに関して、アイドルグループやバンドに関してならそれらの音楽に関して分けて呟いた方がベターという空気は、どことなくあった。

結局気を遣わなくていいように、私は二次元趣味(結構日常的なことが多い、所謂「本アカ」)、読書や映画、バンド系、そして裏アカ的なものを複数持ち使い分けるように務めていた。

 

正直に言おう。

とても面倒くさく疲れた。

何故一介の一般人である私が「この話題はこちらにしよう」「このアカの趣旨に即していないからアカウントを切り替えねば」という謎の義務感と使命感を感じて何になるというのだろう。

これらのことに辟易しつつも、アニメやスマフォアプリゲームを介して仲良くなったフォロワーの皆さんとのやり取りは本当に楽しかったし、中にはLINEを交換して、住んでいる場所が近いため一緒に何度か遊んでいる「ほぼリア友」な方もいた。

そういう方とは、もはやLINEで会話したり、実際にスタバかどこかで色々な話が出来る。女子校時代も、大学時代もあまり広く交際していなかったタイプの私には本当の友人の様でありがたかったし、向こうもお世辞かもしれないが友達だと思ってくれているようだ。

では、別に友達でもない微妙な関係のフォロワーさんに気を遣い毎日どう振る舞えばいいのか悩むことはとても勿体ないことなのでは?と思ったのだ。

 

私には、持病がある。呼吸器疾患と精神疾患,というか障害だ。精神の方は障碍者手帳の申請をして、今その結果を待っているところだ。

これらは厄介なことにリンクしているようで、何が一番厄介かというと、この呼吸器疾患、まあ言ってしまえば喘息なのだが、常に安定していない。

2月頃から寒暖差についていけず、拗らせまくって3月がピークに達していた。あの時メチャクチャに荒れていて、「いっそ殺してくれ」と本気で思ったくらいだ。成人発症したのだが、元から酷くアレルギー体質なので検査結果からアトピー型の喘息なことは判明した。

小児喘息と違って、殆ど治ることもなく寛解に持ち込むのもとても時間のかかるものらしい。体重は一気に5キロ以上落ちて、一時期は35キロしか無く拒食気味になっていた。どうせ食べても、噎せて吐いてしまうという恐怖で怖くて食べることすら難しかった。

その後なんやかんやで自宅療養しつつアプリゲーを何となく始めたら楽しくて、何故か生活リズムが整ったのである。まあ、ゲームする前には最低なにか食べて服薬してからというマイルールを設けたからだろうか。

そうして4月には好きなバンドのスタンディングライブにも2回行き、かなり前の方で思う存分楽しむことが出来た。不思議なことに、このライブ中は何度かメプチンという発作止めの吸入薬を使ったが倒れること無く最後までバンギャできたのである。

いやあ、音楽ってチカラだわーとか言っていたが、本当にそう思う。

 

その後、なんとか社会復帰を果たした私にとって、一番大切にすべきなのは現実だと気付いた。比較的健康になり、仕事も再開して趣味の語学のレッスンも再開した。今2つの外国語を学んでいる。英語は特に支障無く読み書きでき、たまに今の仕事で翻訳や通訳を務めている。

その外国語の先生が母国語の諺を教えてくれた。

いくつの言語を知っているかが、あなたの価値である。

これは単一民族で構成され、未だにモノリンガルでも生きていける日本人にはピンとこないが、諸外国に囲まれた小さな国の人間が商売して生きて行く上では外国語を習得して損は無い、むしろそれでビジネスチャンスや教養が増えるということを表しているのだ。

また付け加えて、こう言っていた。

「人生は短いから、出来るだけ多くのことをやるに越したことはない」

その通りだと思う。現実でないネット上だけのやり取りに頭を抱えて、「返事が遅くなってスミマセン」と罪悪感を感じながらもやり取りするのはとても時間が惜しい。

特に、何度か緊急で病院に駆け込んだことを思うと、不要なストレスを感じて実生活を疎かにしたく無い。もう二度と戻る場所が無くなるなんて嫌だと感じスッパリと本アカと裏アカを消した。

寂しいと言ってくれた方も居たが、私はその方の為に生きている訳でない。

それに前述の通り、本当に仲良くなった方とは他の手段で色んなことをLINEや実際の世界で話すことができる。

そうして、情報収集とTwilog用のアカウントを残し、私は交流目的のTwitterから去った。情報収集としてはとても便利だが、情報過多すぎて、私のような過敏なタイプの人間には毒になり得たのだ。

犬を飼っているのに、血液検査で今更犬アレルギーなことが判明したが、他にハウスダストだとかにも高いアレルギー反応を示していた。そして、血液検査で分からないのが、ストレスだ。私は双極性障害であり、不眠症である。17才頃からの付き合いであるが、双極性の方も「寛解はしても完治はない」というのがどうやら定説のようだ。

 

根本的に一生治らない病気を2つ抱えながら、不必要にストレスに晒されて生きるのは勿体ないと感じた。

それにアカウントをけしてまだ3日くらいだが、とても快適だ。

他の様々なブログでも目にしたが、SNS疲れを引き起こしているのなら、辞めてしまった方が良い。得たいものは、自分から探しに行けば良いのである。

それに、休みの日に起きてからやることが色々あっても時間が過ぎるのが遅く感じられる程だ。ダラダラとTwitterをしていた時間が如何に無駄かを知った。

ゲームして読書して語学の復習をして、ドラマを見ても時間が余る。ありがたい話だ。

 

行き急ぐようにあれもこれもやりたい私にとって、そして何度か文字通り死にかけたことのある私にとって、人生とは短くてあっという間に終わるパノラマ写真のようだと感じている。

こういうことを言う人間程案外大往生するのかもしれないが、人生どうなるか分からない。事件や事故は誰にでも降り掛かるが、全く持病がなく毎日薬に頼らず生活している人と、毎日高用量の吸入ステロイドと10錠以上もの薬によって「生かされている」状態の私では感じ方も違うと割り切った。

 

今ブログに思いの丈をこうして書いている時間は、頭の中の整理であり無駄でないと思う。

何もかもを有益か無駄かで判断するわけではないが、少なくとも悪い意味でのストレスにはなっていない。

笑いすぎても、楽しくて興奮しても発作を起こしてしまうような人間なので、せめて嫌なことは減らして正解なのだ。お笑いが好きなのに、それで笑って噎せて発作になり吸入薬でしのいでいるときは、「理不尽だろ」と感じるが仕方ない。もう、仕方ないのだ。

台風シーズンが憂鬱だが、すこしスッキリした。

まあ、やりたいことだけやって生きよう。現実が何より大切だと分かったのだから。

 

何者かでないといけない。

どうやら、日本では死亡届を出す時にもその人の職業欄を埋めなければいけないということを知ったのは、先日お役所に寄った時のことであった。

ここ最近制度が変わってそうなったのか、以前よりそうだったのかはまだ調べていないので分からない。他国ではどうなのだろうか。

記事を書く前に調べておくべきなんだろうなと思いつつも、思いつきで書いているので後回しになってしまう。

「死亡届には職業欄の記入を御願いします」というポスターを見た時に、「ああ、私がこれを提出される時には、何者なんだろうな」という考えが頭をよぎった。

会社員、自営業、無職

色々あるが、せめて「何者かでありたい」と思った。

どうしても生きていると、自分はこんなはずじゃなかったとか、こうなりたかった、これからでも間に合うだろうか、だとか延々と考え込んでしまう。

自分が組織に属している間は学生やどこどこの企業の社員といった風に、なんとか肩書きが持てるのだ。

名刺が持てるということに、何故か安心していた。

目に見えて、自分が何者であるかが確認できるという、しょうもない発想が脳みその片隅にあったのだ。自己顕示欲が強いくせに、表立って目立ちたくないという相反した考え故に、矛盾した主張を続けていた。

今でも私の姿や名前は、どこかで電子の海をさまよっている。それが、死ぬまでつづくのかと思うと酷く恐ろしい気分になるのだ。

あの時何者かであった自分が、途端に大衆の一個人になってしまうのが恥ずかしいという、下らないチンケなプライドじみたものが、こびりついているのだ。

人は演者だ。

職場での役職、家での役割、こう思われている自分、こう思っている自分。

社会的動物だからこそ、あらゆる舞台で仮面をとっかえ引っ替えして、まるで中国の変面みたいに瞬時に顔を変えて生きている。

死ぬまでずっと、変面を続ける訳だけど、「職業」という仮面を最後に残していないと何者でもないままなんだろうかと感じた。

仮面を外して、のっぺらぼうで生きて行くことが出来ない世界で、どれが自分の顔にあてはまるか探し続けるのだろうか。

 

何者にもなれない人々の1人として、ぼんやり考えるのだった。

身分の奴隷

奴隷という身分は、世界のどこかで今もあるんだろう。

いや、確実にある。

私たちが歴史の授業を受けたりテレビで見聞きしたプランテーションで働かされている子供たち。

そして、労働市場で安価で働かされる労働者。

見えない社会的ステイタスに縛られた、身分制と言う名の社会そのものに仕える奴隷って、身分の奴隷と言えるんじゃないかな。

一度、この記事のタイトルをぼーっと見つめて既視感があるなと感じたのだが、それはかつて、私が見たロシア映画に「愛の奴隷(原題もРабо любви, すなわち愛の奴隷)」だった。

まあこの記事には全く関係はないが。


話を戻すと、人は誰でも「あの人よりはマシ」「自分だけはまだ大丈夫」と思いたがる。

無職よりはマシ、フリーターよりはマシ、独身よりはマシ…など。

だから必死に受験勉強して、いつ役に立つのか分からない資格を取るために勤しんで、シューカツして、合コンして…果てし無く自分磨きをする。

それって結局、誰かと自分を天秤にかけて、自分がせめて数ミリでも上にあがっていたいがためであって、本当に望んだものなのかな。

社会的ステイタスや肩書きにがんじがらめにされた、奴隷のようだ。


誰も本当は、他人のことなんてそこまで気にしていない。

誰がどんな仕事をしようが、どんなスキルを持ってようが、誰と付き合おうが、別に芸能人でもなんでも無いのだからあまり興味はない。

だけど他人を気にするのは、自分はまだ幸せな方だと安心したいがためなんだ。

日本で飼い慣らされるよりマシ、と思って海外でゲンサイしていたら、同じ日本人であっても女性駐在員、駐妻(実際関わることすらない)、現採、とコミュニティーが別れているし日本以上のムラ社会である。

駐在と現採の云々は今は置いておいて、確かにそこには現地人、駐在員、ゲンサイ、そしてその他というような属性がある。

同じ現地人であっても社会的ステイタスが違えば全く接点はないし、むしろ日本人以上に身分に拘泥していると思えた。

だけど、必要以上に他人と自分を比べて劣等感に苛まれたり妬んだりということはあからさまにはない。

同じFacebookでの幸せアピールでも、本当に心から今与えられた幸せを噛み締めて感謝しているような、そんな姿すら見受けられた。

幸福の尺度が違うのは、生まれ持ったアイデンティティーや文化的背景に寄るのだろうか。

私が何よりも欲しかったシアワセって、どんな身分だったのか。


今こうやってネットをふらついて他人のことを気にしている時点で、まだまだ身分の奴隷なのである。



断捨離をした。

先ほどしたためていた断捨離についての記事が飛んだので再度。コピーしたはずなのにな??これからはテキストエディタに書いてから、コピペして投稿しよう。

部屋に無駄にモノが多いから、帰国してほぼ一週間経つのにスーツケースの中身を片付けようにも片付けられないので思いきって要らないものを選別した。

大きなゴミ袋2つ分の服、燃えるゴミ(ティッシュとか紙くずとか)1袋、燃えないゴミ(文房具とか小物)1袋、書籍の山に大別された。

以前も断捨離と称して大掃除したので、今回は半日程度で済んだのだけど、まだまだ不要なモノが多いと思う。

割と私は物持ちが良い方なのだが、逆に言うと捨てられない症候群のくせに新しいものを買ってしまうので、同じようなモノがごろごろあるわけだ。

もうこれは二度と読まないだろうし、ブックオフに持って行っても処分だろうなという本は古紙回収に出す事にした。

TOEICやらなんやらの資格本は本当に置いていても意味が無いと思うし、学生の頃の教科書や学会誌なんかを思い出代わりに取っておいていたのだけど読み返した事はほぼ無かった。

ネットで断捨離について色々読みあさったが、捨てられない人っていうのは思い出も大事にしている人なんじゃないかな。

さすがにプリクラや写真を全部捨てるのはためらわれたので、まあ死ぬまでおいておくかという一部を残しておいたのだけど、それも今後見るかどうかは怪しい。

むしろ、とんでもなく駄目な人生を送っている私は昔の写真を見た所で、「ああ、いまごろ○○はこんな素敵な人生を送っているのに・・・」と劣等感に苛まれるだけなのであまり視界に入れたくはない。

そういうわけで、Facebookもあまり見たくない。一部の海外の友人など、それ以外に連絡のとりようがない人がいるので、メッセンジャーのアプリだけ残して、iPhoneから要らないアプリを消すという作戦に出た。

パソコンからSNSをすることは、私の場合ほぼ皆無なのでアプリを消せば見なくて済むのだ。

インスタも、Facebookも大多数は自分の日常の中の一部の「シアワセ」を切り取って誇張して、「私はこんなにキラキラしてて、とってもハッピー」と自分を納得させるために使われている気がする。事実、メッセンジャーで日々の鬱憤を愚痴ってきた友人が、次の瞬間、とても幸せな写真と記事を投稿するのを何度も目にした。たまーに、「病んでる」感満載の投稿も見るが、大体そのあとは「やっぱりハッピーな自分」を演出する。

モノを買って、SNSに投稿して、シアワセの虚像を作って・・・

だから、明日からも要らないモノ、情報、人間関係、すっぱりとリセットする気で断捨離を進めようと思う。